蘇北の思い出 |
浅山英一 |
花匠というので生花のお師匠さんかと思えば中国では植木屋か花作りのことである。花のタクミと書くので定めし恰好のついた職人かと思ったら、一介の農民よろしく無精鬚を生やした老人がやってきた。生垣の刈込を頼んだので刈込鋏でも持って脚立か何か用意して来るかと思っていたが、ブリキ鋏のような小さな鋏をもって椅子を貸してくれという。踏台にするのである。花匠(ほあぢゃん)が花匠なら木匠(もうぢゃん)も木匠である。
木匠なら彫刻師かと思うが木挽か大工のことである。大きな支那鋸で暢気な掛声よろしく木を挽くのだが、日本人のようなせわしい挽き方をしない。
日本の鋸は手前に引いて切るのだが、支那の鋸は押して切るように目が立ててある。
一日かかって径一尺の材木を五−六本しか挽かないので文句をいえば、漫々的にやらねば仕事はできないという。
花匠(ほあぢゃん)にしても木匠(もうぢゃん)にしても大陸では至極悠々たるものである。長生きするのも無理からぬ生き方である。
花匠の作る盆栽は風変りである。日本では梅の盆栽ならば切口も見せないようにし古色蒼然たる趣が出なくてはならぬが、支那の梅の鉢植は緑枝がボキボキ折れ曲っている。花を咲かせるために折っておくのだが、C-N率を高める原理は会得されているのである。花はたくさんに咲くけれども、どの枝も折った跡が歴然としていて傷ましい。
バラの鉢植も挿木苗が多いが品種名はおもしろい。鴨蛋紅(やあたんほん)というのはアヒルの卵黄の色である。そしてこの名がピンとくるほど、アヒルの卵と民衆の関係は深いのである。
桃は支那ではおめでたい植物の一つで、彫刻にも図案にもとり入れられている。桃子(とーつ)は果実であるが、わが国の古事記の桃と比べても、子孫繁栄を希うのは同文の国柄という感が深い。
木扁を取れば兆であり数多くの子孫を意味するらしい。桃源郷が理想郷であるのも之と関係がありそうである。そういえばわが国の桃は、渡来したものかもしれない。天津桃、上海水蜜、西王母、東王母等と彼の国の名のついた桃が多い。蟠桃はわれわれには馴染が薄いが、江蘇一帯の訪問にはしばしば見受けられた。
同文の国の植物の名は発音こそ違うが、万年青(わんねんちん)、仙人掌(しんりんざん)、鳳仙花(ふぉんしんほあ)、柘榴(すうりゅ)、秋海棠(しうはいたん)、柿子(すつ)、蒲公英(ぶこんいん)等と一目それが何であるか判るものが頗る多い。
公孫樹(こんそんす)は銀杏のことであることは誰も知る通りであるが、字の意味はすこし馴れてこないとおもしろくない。公(こん)は親爺であり孫(そん)は孫(まご)、親爺が銀杏を植えて置けば孫どもがその実を拾ってたべることができるという有難い樹である。老人の柿の接木を嗤ったら、「なに、孫に残してやるのさ」といった小学読本の話も思い出される。公(こん)が親爺で公鶏(こんち)は牡鶏のこと。私は誰かに教わった時には鶏の総称と覚え込んでいたので、公鶏(こんち)の卵が欲しいといった時大笑されたことがある。ニワトリの卵は鶏蛋(ちーたん)で通り、敢えて母鶏(むーち、牝鶏)の卵といわなくてもいいのである。
しかしうっかりただの卵を欲しいなどといえばたいへんなことである。卵子(ろんつ)は誰にもやれない大切な代物なのである。
流行歌に好花不長開(ほーほあぷつぁんかい)、好景不常在(ほーちんぷつぁんつぁい)という句があるが、美人薄命、槿花一朝夢という無常の思想は海を隔てても同じであるようだ。
漂茫として目を遮るものりない蘇北の瀑原にも楊柳とセンダンの木だけは、立木らしい感じを与える。朝霧に漸く輪廓だけ見える楊柳は、彼地に在った人の印象に強いものが残っているであろうし、私もセンダンの花が薫る五月の風に龍滑車や風車の廻る音をいま一度聞いてみたい郷愁にも似た衝動を感ずるものの一人である。
葦原から陽が上り葦の葉陰に落日する東海岸地方の農民には葦は大切な燃料であり、また見返品である。葦の花穂は器用に編まれて藁靴様のものができ、冬には温かい防寒靴となる。
樹木に恵まれぬこの地方では葦を燃料とするには贅沢な方で、一般には乾草、稲藁、野芝の根、センダンの実等が大切な燃料となっている。老人や子供の日課は芝の根ッコ掘りである。芝の根も三、四日乾かせば立派な燃料であり、乾燥した水牛糞もまた大切なものである。
根ッコ掘りの話なら、スベリヒユやナズナは脂でいためて惣菜となる。脂は黒豚がいるので豊富である。農民の生活程度は低いけれども生活するための底力は実に強靱なものがある。支那農民に土のある限り絶対に亡びぬ国であることも感じられた。
水域が多いので蓮が多い。澱粉はほとんど蓮根から採られる。強いアルカリ土壌の故に馬鈴薯や甘藷は水っぽくて澱粉が少いばかりでなく、いもそのものが不作である。当時は、仮令沖縄百号でもいいから口にしてみたいと希ったことである。
蘿蔔(だいこん)といえば廿日大根の類が多く、白紅、紫と店頭に山と積まれる。蘿蔔(るほ)は実に美しい。老若男女、憶面もなく街頭で蘿蔔を噛るのはあまりいい図ではないが美味そうである。
胡蘿蔔(ほろほ)はにんじんのこと。長いのはなく三寸人参の類が幅を利かせている。
セルリーは厚蒔にして四、五寸に伸びた時、芹のように刈取って売出される。葯芹(やーちん)といわれているが葯は薬に通じ、五香湯や実母散のように薬臭いのでそう呼ばれるらしい。特に薬にはしないようである。
玉葱は渡来蔬菜であるから洋葱(やんつぉん)といわれる。しかし何といっても大量に消費されるのは蒜(にんにく)で、道ゆく人みなアセチレンガス臭い息をプープー吐いて一向平気である。とにかく胃腸をはじめ、五臓六腑の強壮剤と云うニンニクであるから試みたいと思うけれども、センブリを飲む以上に私共にはむつかしい。臭気を取去ってしまえば薬効が無いといわれているからどうにもならない。
「要青菜呵(やおちんぜいあー)」と呼びあるく野菜売りは五、六月にはヒユを籠いっぱいに入れてくる。この辺のヒユは紫紅色の葉鶏頭そっくりのものである。この分ならハゲイトウもケイトウも喰べられるに相違ない。野生のヒユも胡麻あえにすれば風味はあるから、ハゲイトウやケイトウの胡麻あえもおもしろいかもしれぬ。
私は支那にゆくまでクログワイを見たことがなかったので勃斉(ぶじ)と称して売りに来る異様な塊茎が何であるか判らなかった。色はうるしのように黒光りしているがグラジオラスかなとも思ったりした。後でこれがクログワイだと判断のついた時、もっとクワイに似ていれば世話がないのにと思った。生で皮を剥いで喰べれば肥料不足の梨のような淡甘い味がする。
慈姑(つーく)もまた多い。馬鈴薯でコロッケをつくるよりも慈姑(くわい)で代用したほうが安上りである。ほろ苦いコロッケも悪くはないが、剃り立ての青坊主のようなクワイは見飽き喰べ飽きしてしまった。日本ではいまどきクワイでコロッケでも作ろうものなら財布が空になりはしないだろうか。
真菰の筍も秋冷と共に出廻ってくる。マコモの黒穂病菌がなければ、筍ができないともきいているが、今も私の家の溝に植えておくのは毎年食膳を賑わしてくれる。
トマトはまだこの地方では珍らしいものの一つであり、大抵の人々はまだ見たことも喰べたこともない人が多い。真紅に熟したトマトを喰べて御覧と差出しても気味が悪いのかためらっている。元気のいい若い男が僅か口にしてみたが、ペッと吐き出してしまった。わが国でもトマトが渡来した頃にはこのようなことがあったに相違ない。
夏は野菜の王国で茄子(ちゃーつ)、西瓜(しいぐわ)はもちろん甜瓜、南瓜も狭い街路の両側いっぱいに溢れるのである。
食事はどこでも楽しいものであろうが中国の食卓は一段と賑かで食器が卓上狭しとばかり並べられる。農民の家庭でさえそうであるから宴の席は殊更である。
しかし食事の内容は必ずしも贅沢なものではない。玉蜀黍の粉や米の粥をすするのが多く、さもなければ焼餅(しゃおびん)の類が主食である。玉蜀黍畑もかなり多く、収穫の秋には農家の部落の広場はうず高く積まれた黄金、白銀の山で燦然と輝く様に実に美しい。
水田も多いが、耕地は整理されていない。田植も賑かであるが、縦横無尽の目茶苦茶植である。もちろん定規も、縄も使わないから綺麗には植わらない。収穫もまたゾンザイで、実った稲穂の首だけを摘み取って、藁は刈って団子のように丸めてしまう。稲藁の利用は燃料とするのが主である。
蘇北の小麦畑は視野の限りに続き、人の姿が見えない所までも麦の波である。いつみても手を入れている様子をついぞ見かけないのに、知らぬ間に蒔かれて育ち、またいつの間にか収穫されてしまうのである。
いちばん利用の多いのは小麦で、焼餅(しゃおぴん)のほかにいろいろと使われる。餅(ぴん)といっても餅(もち)ではなく、ふっくらした焼いたパンである。正月の餅もやはりパンである。重曹やイーストでなく白い石鹸の塊のようなものを削って入れて、一晩ねかせて醗酵させるのであるが、でき上ったものは一種の酸味をもっている。残念なことにそれが何であるかとうとう知らずに済んでしまった。韮を刻んで入れた草餅(そうぴん)は黒くて体裁は悪いが、美味しいものである。
食事は家の中でするのが礼儀であろうが、農民や苦力は戸外でたべるのを何とも思っていない。われわれの目には無作法至極に見えるけれども、御本人達は一向おかまいなしである。
平たい茶碗に食事を盛って人目につく所でたべている。ひどいのは立ち歩きながら、また、しゃがみながら吃飯(ちーふぁん)をやる。知っている人が来ると茶碗を差上げて「吃過了麼(ちごおらま)」という。「御飯が済んだか」と云うのであるが、相手が食事前であっても「どうです、一緒にたべませんか」と云う意味ではない。かえって他人にみせびらかすような態度である。
惣菜はいろいろであるが、豚脂で野菜を煮たものや、小魚を醤油(ちゃんゆ)か辣油(らーゆ)で味をつけたものが多い。漬物は青菜(ちんぜい)を塩にしたもので、擂鉢のようなものに入れておく。
食卓はよごれるほうが食事の盛大であることを意味するらしく、特に宴会ではそのようである。
世界中で箸を器用に使うのはわれわれのほかに中国人があるが、この箸たるや大形でカイツというのが感じがでるような気がする。
仏事があれば生臭いものは口にせず、やはり精進するようである。南無南無(なむなむ)だというのがおもしろい。
菓子(くわつ)はいわゆるお菓子ではなく、食事以外のお菓子の類も総称して点心(てぃんしん)と云い、これに十幾通りかの種類があるといわれている。ヒマワリや西瓜の種子も点心の一つであり菓子パンや、糖包子(たんほうつ)、饅頭(まんとう)の類も点心の仲間である。
菓子パンの焼き方はおもしろい。小規模には、テンピ等を使わず、大きな壷の内面に生の材料をペッタリと貼りつけて、その壷の中で火を焚くのである。
お茶はなかなか高価で、良いお茶は目玉のとびでるほど高価である。有名な龍青(ロンヂン)にも幾通りかの格がある。高価なことを多貴(たーくい)というが、われわれの言葉のタカイというのと音が似ているのがおもしろい。
お茶は急須に入れないで、茶碗に一つまみ入れて湯を注ぎ、蓋をかぶせて、茶の葉が口に入らぬように、茶碗の蓋の間からすするのである。
たいていの街にはお湯を売る店があり、ここへ魔法瓶を持って買いに行く。魔法瓶の普及は想像外のものがあり、どんな家庭でもたいていこれをもっている。燃料節約の故もあるが、来客の時にはちょっと一走りして魔法瓶を満して来るほうが便利なこともあろう。家庭では湯呑茶碗を用意する所はごく稀で、たいていは瀬戸物の口つき湯呑みから直接に吸うのである。
さて蘇北の名産に棉がある。棉花(めんほあ)は植物を云い綿花(めんほあ)は加工されたものを指すのである。気候や風土が棉の栽培に特に適しているわけではないようだが、とにかく広大な地域から集荷される量はばかにならない。この辺一帯のクリークは、綿花輸送の水路であるといっても過言ではないのである。そのくせ綿製品は高価である。
農民の娘や老人は、棉花から糸をつむぐのに年中忙がしい。独楽のような木製の錘(オモリ)をくるくると廻して糸を引出してゆくのはなかなか器用である。
老婆たちや太太(たいたい、人妻)は路上で幾間も糸を張って撚をかけている。こうしてできた自家用の糸は、唯一の履物である布靴のサシコをするのに使われる。布靴は半年しか保たないから、家族の用いる靴を縫うのは女の仕事なので、年中暇さえあれば靴底の補修を余儀なくされているのである。
土煉瓦の壁、藁葺の家、黒い腹の垂れ下った支那豚、ギイギイと楊の枝で啼く三韓鳥、いつもどこかで吠えている狗(いぬ)、家鴨の群と水牛、こういった画が描かれている風景は、蘇北のどこに行っても平和であり、朝な夕な望楼から哀音をひびかせる和平軍の喇叭の音がきこえている間は天下は平穏であった。
楊州の赤い塔、泰県のマー頭、さては劉荘の古寺の金色の屋根瓦と巨大な仏像、朝夕は塩のため土が白く見える塩城附近の草原等、しばらく目を閉じると、異郷の風物が彷彿として蜃気楼のように浮び上り、いつの日か再び訪れてみたい感傷に誘われるのである。
本文は『園藝手帳』の昭和29年2、3月合併号(10−11頁)と4月号(1−2頁)に掲載されたものです。原文は縦書きで、ルビがふられていますが、ここではルビを()の中に入れてあります。
園藝手帳は園藝文化協會の機関誌で、当時第一園藝株式會社から発行されていました。